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建築士会コラム

役員リレーコラム「日々精進」西讃支部 理事 田中秀都

コラムの執筆にあたり、先の平成29年12月の京都での第60回建築士会全国大会において、私のような未熟者が身に余る栄誉、連合会会長表彰をいただいたことに、この誌面をお借りし御礼を申し上げたいと思います。遠藤会長様をはじめ、諸先輩の皆様、又士会各会員の皆様本当にありがとうございました。

さて、私は何を書こうかと頭を痛めながら、なかなかペンを取ることができませんでしたが、昔の事を思い出しながら進めることにします。
       
私が建築士会に入会した時は、正確には覚えていませんが、今から約35年程前と思います。当時はまだ資格は取得しておらず、準会員として入会しました。当時のことはリアルに頭の中に残っており、まだ私は現会社に入社して日も浅く、営業へ進むのか技術系に進むのかは方針も決めかねていた頃でした。高校の先輩でもあり、私方建設業者として建築工事も紹介していただいていた曽根建築設計事務所長の曽根昭一氏に入会を勧められ、公私ともにお世話になっている状況からすれば有無を言う間もなく、入会したと記憶しております。当然青年部にも席を置き、西讃支部総会、青年部会等にも顔を出すようになったのですが、当時は西讃支部には(たぶんどの地域でも同じだと思うが)そうそうたるメンバー、重鎮がドンと構えていたように思います。当然最初に行った支部総会では、私は最年少の一人だったはずです。でも多くの人に声をかけていただき、徐々に雰囲気に溶け込んでいけたことを、今思い出します。その後、準会員のままでは・・・との思いもあり、何とか建築士の資格も取ることができました。本当に士会に入会し、皆様と知り合いになることがなければ、今の私の存在、立場また資格取得もなかったかも!と思うと・・・、今度、曽根昭一先輩にお会いする時には、充分に御礼を言わないといけませんね。

また現在に至るまでは本部支部両方の行事や、委員会等にも参加させていただいき、西讃支部支部長を12年前に任命いただきました。士会本部においても、理事を何期か経験させていただくことにもなりました。本部総務委員会に所属していた期間が一番長かったのですが、表彰審査対象作品を委員会のメンバーと共に現地見学、審査に行けたことは私にとって非常に大きな財産にもなりましたし、レベルの高いすばらしい作品を見ることができたり、メンバーとの意見交換もできたり、本当にいい経験ができました。見学行程が西讃エリア集合から中讃、東讃、高松エリアへの移動が多かったのですが、車での道中でいろいろな建築に係る話や、ハプニングなど、本当に私にとって勉強になることばかりでした。士会及び士会員の皆様、関連した工事関係者の皆様、御施主様、お世話になったことは絶対に忘れてはなりませんね。
 
最後になりましたが、今回の原稿を書くにあたり、昔から今を思い出すことにより、士会で今まで知り合った皆様、これからの若い会員の皆様に対し、御礼奉公をし、足手まといにないようにがんばります。まだまだ精進しなくてはならないと思う今日この頃です。

役員リレーコラム「ベーハ小屋の讃岐」西讃支部 理事 菅 徹夫

「ベーハ小屋」という言葉を聞き慣れない方も多いと思います。ベーハ小屋とは漢字で書くと「米葉小屋」、アメリカ原産の煙草の葉を乾燥する小屋のことです。讃岐ではこの小屋を乾燥場とかカンソバと呼ばれることが多かったようです。ベーハ小屋という言葉が、はじめて世に出たと思われるのは写真家 北田英治氏が2005年10月に開催した写真展です。この写真展では栃木県益子のものがいくつか紹介されていますが、彼が益子で話をした農家のおばあちゃんがしきりに「ベーハ小屋」という呼称を使っていたのが始まりのようです。
 
そんなことも知らずに、2008年4月に大野原町でたまたま見つけた乾燥小屋を私のブログで紹介したところ、建築家の秋山東一氏から「これはベーハ小屋というものである」というコメントをいただいたのです。煙草の乾燥小屋の存在は、もっとずいぶん以前から知っておりましたが、当時ベーハ小屋の意味も知らなかった私は、この謎めいた呼称にも煽られて車の走行中にベーハ小屋探しをはじめることになったのです。すると、思っていた以上に「ベーハ小屋」が次から次へと見つかりはじめたのです。おもしろがって「ベーハ小屋研究会」なる団体を立ち上げ、メンバーで香川のベーハ小屋の捜索をはじめました。2~3年の間に県内で400以上(うち小豆島100棟以上)の小屋を見つけ出しました。これらを写真に納めWEB上に紹介していると全国に興味を持ってくれる人たちが現れ、今やベーハ小屋研究会のメンバーはWFB上で142名にも増えました。
 
ベーハ小屋は南は沖縄から北は岩手県まで全国に広く分布しています。研究会には様々な写真や情報が寄せられます。メンバーにはJTの広報を担当している方もおられ、そのメンバーによると当時全国で最もベーハ小屋が多く建てられたのは茨城県で約13,000棟、第二位が香川県で12,000棟ほどだったそうです。茨城県の面積は香川県の3倍以上ありますから、ため池と同様ベーハ小屋密度は香川県がずば抜けて日本一だったということになります。東京近郊の茨城県などとは違い、開発がさほど進んでいない香川は、今でも数多くのベーハ小屋が現存しており、その数はおそらく日本で最も多いと考えられます。
 
全国各地に今も散在しているベーハ小屋ですが、それぞれの地域でプロポーションや建築材料、構法も少しずつ異なっており興味深いものがあります。讃岐のものは日本瓦と黄土色の土壁に象徴され、小屋がため池やおむすび山とともに地域の風景をつくっています。讃岐らしい農村の原風景の一つの要素になっていると思います。雨風で崩れたり、解体されたりしてどんどんその数が減っていくベーハ小屋ですが地域の産業遺産としてどこかに保存すべきなのではないかと最近思い始めています。

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まんのう町黒川駅近く。
二つ並んだべーハ小屋を「夫婦窯(めおとがま)」と呼ぶ。


建築士会全国青年宣言『僕らが考える明日、10年後の建築士』全国委員長会議参加報告 青年委員長 中村一之

香川県内の青年層建築士(40歳以下の建築士 女性も含む)の会員数は約260名在籍しております。(事務局の窪村さんに数えて頂きましたm(__)m)青年委員会は、各支部に所属する青年層建築士の中から20名程度選出し、常設委員会としての業務を推進しております。

青年委員会の業務の内容は、各支部青年部会において地域実践活動の実施、建築士試験合格者セミナーの実施、連合会及び中四国ブロック青年建築士協議会主催事業の参加、2ケ月に1回委員会を開催し、本部からの報告事項及び各支部青年部会との連絡調整を行うようになっております。また、青年層建築士の活動の軸となっている地域実践活動については、各支部青年部会が中心となってポリテクカレッジ・工業高校座談会、若手建築家講演会を青年委員会共催で継続事業として実施しております。

連合会主催例年行事の一つとして47都道府県の青年委員長(副委員長、次期委員長候補者)が一堂に集まる全国青年委員長会議が例年3月に2日間にわたり開催されます。平成29年度は青年委員長候補として私が、平成30年度は副青年委員長である中讃支部の森さんが参加しました。

この2年間の会議テーマは『僕らが考える明日、10年後の建築士』と題し、青年委員会が「なぜ建築士会で頑張っているのか?」「なぜ建築士会でなきゃダメなのか?」を討論し建築士会の魅力を再認識し、10 年後の建築士会がどうあるべきかの姿(ビジョン)をまとめ、建築士会青年委員会における全国共通の行動計画(アクションプラン)を定めよう!という内容でした。

10年後の姿なんて想像もしたことないのでとても重たいテーマと感じましたが、会議を通じてまずは自分たちのアイデンティティを見直し、その魅力を言語化・可視化し、将来ありたい姿を描き、どのような言動・行動をするかを限られた時間で方針を定め、建築士会がより魅力的な団体となるためには、どのように実践、共有できるかを討論しました。

平成29年度ではビジョン(我々の存在目的、我々のアイデンティティ、我々の使命)を定め、平成30年度でアクションプラン(我々はどこへ行くのか)を決定しました。

まずは、この青年委員会理念を役員及び士会員の皆様に伝達し、青年層建築士の活動に理解していただき、さらなる発展を目指していきたいと思います。また青年層建築士会員の皆様で青年部会の存在を知らない方は、これを機に各支部青年部会に興味を持っていただけたら、活動に参加いただければ幸いです。

今年度の香川県青年委員会では、上記アクションプランについてどのような活動ができるか、行動計画を明確にして実行に移してみたいと思います。
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役員リレーコラム「平成から令和へ」高松支部 理事 篠原晴伸

5月1日から新しい元号が始まりました、「令和」。私も皆さんと同じ様に4月1日の発表を興味深く待っていました。発表から1週間程で新元号に慣れて来たように思いますが、発表された瞬間は「令」の文字が馴染めず何かポカンとした印象でした。「令」と言う字は発表以前の色々な予想の漢字に無かったですからね。
 
その後、それを選んだ趣旨の説明があり、今までの中国の古典からではなく、日本の万葉集から選ばれた事、その和歌の内容と引用した元号に掛ける願い、また「令」には「良い」とか「立派な」という意味もある事を聞き、段々と良い元号と思えてきました。引用された「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を拓き、蘭は珮後の香を薫らす」と言う歌も、普段気に掛ける事が無かった万葉の雰囲気を一瞬ですが感じた気にさせてくれます。
 
30年前の「平成」の時の言葉の経緯は覚えていませんが、「昭和」「平成」と続く中で、「昭かに和平成る」と元号が繋がって見えると、テレビ番組のコメンテーターが言っているのを聞いて、いい元号だと思った記憶があります。
昭和が長かったからか、私はアッと言う間に「平成」の30年が終わったと思っていましたが、その後、じっくりと振り返ってみた時、人生に置き換えてみると長いものだと感じるようになりました。0歳児が30歳、30歳が60歳、60歳が90歳となる訳ですから、30年は人生の中でそれぞれとても大きな時間の経過ですね。平成の30年間も、東日本大震災や阪神淡路大震災、ソ連の崩壊や湾岸戦争、ベルリンの壁崩壊やリーマンショック等、もう遠くに記憶が薄れている事柄も平成だった様です。
 
昭和生まれの私が子供の頃は、「明治は遠く成りにけり」と聞くことが時々有りましたが、今後は「昭和は遠く成りにけり」と言われそうですし、平成生まれの人もその内そうなるでしょうね。

平成の始まりの流行語に「24時間戦えますか」と言うのがありました。その以前には「モウレツ」というのもありましたが、働き方改革が4月から始まった今日、30年前とは働き方の人々の意識、社会の意識も、善し悪しは別として随分変わったものだと思います。

自分が30年前に設計し竣工した建物を振り返ると、当時の若さで設計に情熱をぶつけた思い出が懐かしく思いだされ、自分の中では日々建築と「24時間戦って来た」と言うより、取り組んできた様に思います。平成に「ゆとり教育」と言われた時期がありましたが、それが失敗であって、方向が切り換えられた今を感がえてみると、世の中が働き方改革と成って時間が出来るからと言って、建築に対する情熱と楽しみを失わず、特に若い方たちには頑張って欲しいものです。
 
元号が変わると言えば、江戸(慶應)から明治への変化は大きく、近代化への流れの中で、熱い思いや希望を持った日本人は多かっただろうと想像します。今年のNHKの大河ドラマの「いだてん」は大河ドラマ的なイメージを離れ、少しチャラけた表現ではありますが、その中にも明治の熱きエネルギーを想像させてくれている様に感じます。

司馬遼太郎氏が「建築に観る日本文化」と言う講演の中で、氏は明治の文豪、夏目漱石に触れ、漱石は実は建築をやりたかったと言う下りがあります。その中で、正岡子規は当初哲学をしようと考えていたが、米山保三郎と言う天才が哲学をするという事で自分は国文学に変えたという事や、その米山保三郎は夏目漱石の学友であり、そもそも日本(明治時代の)にイギリスのセントポールカテドラルの様な大規模建築の発注者が出る訳がない、だから建築なんてやめた方がいい、だが文学なら望みがあるだろうと言って建築から文学に導いたという事を面白く語っていました。ただ、元々理学系の頭で数学に強く法則的考え方が好きで建築をやりたかった漱石は、幾つかの小説の中の表現に建築への未練を感じさせるものが出ていると氏は言っています。

氏によれば、「明治までの日本の大きな建築はと言えば、仏教との関わりから奈良時代にその傾向があったものの、その後平安京に遷都してから信長が安土城を建てるまで一部を除いて基本的には無い」と言っていますが、漱石が近年の日本の大きな建築をもし見る事が出来れば相当に驚き、建築への思いが再燃したかも知れません。また漱石が文学をしながらも、もし建築に取り組んだらどんな作品を作っただろうとの興味も湧きます。

私は、建築士会のモニター会議の座長を3年させて頂いています。毎年その年に建築された物件から「かがわ建築士」に掲載を推薦する作品を上げ、確認する作業ですが、モニター会議時では物件名しかまだ分かりません。今年はどんな建築があるのかと興味を持ち、その後冊子になった写真を楽しみに見せて頂いています。
                                  
香川県に良い意味で競い合って、そして良い建築作品がどんどんと増える事を期待していますし、自分も微力ながらその方向に力を注ぎたいものです。

役員リレーコラム「ふと気がつけば、人生楽あり苦あり、山あり谷あり ああ忙しい」 高松支部理事 中村 賢治

3人目の孫の生まれる予定日が、昨年の12月27日であった。平成30年も暮れようとするのに、我が娘は「まだまだ出てこん」と、あっけらかんとしていた。27日が過ぎ新年の正月が来ても「まだまだ」であった。長男も、横浜から里帰りしていた次男坊一家も楽しみにしていたが、孫には会えなかった。私事だが、毎年正月には出身大学の箱根駅伝で盛り上がり、1月3日の復路の日に大学の校友会(同窓会)を開催し、酒を酌み交わしながら応援している。我が母校は1997年第73回箱根駅伝で初優勝を果たし、以来この1月3日を特別な日として毎年楽しみな日となっているのだが、今年はそれも欠席させて頂き、TV観戦であっけなく終わってしまった。校友会の連中からは、大変お叱りを受けたが、それどころではなかったのである。

次男坊一家も1月4日に「まだ生まれないねー」と言いながら帰っていった。しかし、その夜から前兆が現れ1月5日(土)の朝9時頃に3人目の孫(女の子)が無事誕生した。母子共々健康で、1月12日(土)に退院した。じいじもばあばもバタバタと大変であったが家の中は幸せ一杯であった。ところがその日から急に喉が痛くなり、13日・14日(休日)を我慢して15日(火)に熱でふらふらしながらも、古くから付合いのある病院へ行くと、「インフルエンザA型」を宣告された。予防注射もして、気を付けていたのになあ・・・・・。

すぐに家に電話をすると「帰って来るな。孫に感染したらどうするの!!」と言われ、じいじはあえなく近くのホテルで7連泊する羽目になったのです。只々眠るだけで、熱が下がるのを待たなければ孫にも会えない。ホテル住まいは苦しく、味気ないものであったが、1月23日には無事に家に帰ることができた。孫の顔を見ることができた時、「人生何が起こるか分らない」と思った次第です。当然その間の公式行事も、代役の方にお願いし、事なきを得たのだが、私の所属する組合の研修旅行にまで、行けなくなってしまった。「2月末・3月初旬には花粉症の出ない所へ行きたかったなあ」とつくづく思っています。そして、1月27日の私の70回目の誕生日には、家族から大好物の焼酎を頂き、ちびちびと飲んで幸せ気分に浸っているのです。

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話はまだまだ続きます。今年は、2年に1回の指名願いの提出年で1月後半から2月に入って、インフルエンザの後遺症に苦しみながらも、各諸官庁に提出が終わったと思ったら、疲れが出て、この歳になるまで私を支えてくれた大事な奥歯が異常をきたし、大嫌いな歯医者にお世話になることになった。私は診療台に座ることが嫌で、耳鼻咽喉科と歯科だけは、この歳になってもいまだに座りたくない。確かに今の診療台は改善されてきてはいるが、それでも嫌なものは嫌なのである。

勝手なことを言いつつも、3月は早速の「初節句」がある。我が家ではすでに孫のために、お雛様飾りを出してきて座敷に飾っている。もっともこれは、ばあばが張り切って、せっせと運び出して組み立てた物だが、なかなかの迫力のある物である。今は、歯医者に通院し、家に帰ると孫の顔を見てはじいじになっているのである。次男坊からは今年の5月の大型連休に、再び里帰りするそうで、長男も心待ちにしている。そうなると我が家は総勢10名+犬5匹の生活が待っている。騒々しい連休になるだろうなあと今から心待ちにしているところである。

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