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一般社団法人 香川県建築士会
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建築士会コラム

建築士会全国青年宣言『僕らが考える明日、10年後の建築士』全国委員長会議参加報告 青年委員長 中村一之

香川県内の青年層建築士(40歳以下の建築士 女性も含む)の会員数は約260名在籍しております。(事務局の窪村さんに数えて頂きましたm(__)m)青年委員会は、各支部に所属する青年層建築士の中から20名程度選出し、常設委員会としての業務を推進しております。

青年委員会の業務の内容は、各支部青年部会において地域実践活動の実施、建築士試験合格者セミナーの実施、連合会及び中四国ブロック青年建築士協議会主催事業の参加、2ケ月に1回委員会を開催し、本部からの報告事項及び各支部青年部会との連絡調整を行うようになっております。また、青年層建築士の活動の軸となっている地域実践活動については、各支部青年部会が中心となってポリテクカレッジ・工業高校座談会、若手建築家講演会を青年委員会共催で継続事業として実施しております。

連合会主催例年行事の一つとして47都道府県の青年委員長(副委員長、次期委員長候補者)が一堂に集まる全国青年委員長会議が例年3月に2日間にわたり開催されます。平成29年度は青年委員長候補として私が、平成30年度は副青年委員長である中讃支部の森さんが参加しました。

この2年間の会議テーマは『僕らが考える明日、10年後の建築士』と題し、青年委員会が「なぜ建築士会で頑張っているのか?」「なぜ建築士会でなきゃダメなのか?」を討論し建築士会の魅力を再認識し、10 年後の建築士会がどうあるべきかの姿(ビジョン)をまとめ、建築士会青年委員会における全国共通の行動計画(アクションプラン)を定めよう!という内容でした。

10年後の姿なんて想像もしたことないのでとても重たいテーマと感じましたが、会議を通じてまずは自分たちのアイデンティティを見直し、その魅力を言語化・可視化し、将来ありたい姿を描き、どのような言動・行動をするかを限られた時間で方針を定め、建築士会がより魅力的な団体となるためには、どのように実践、共有できるかを討論しました。

平成29年度ではビジョン(我々の存在目的、我々のアイデンティティ、我々の使命)を定め、平成30年度でアクションプラン(我々はどこへ行くのか)を決定しました。

まずは、この青年委員会理念を役員及び士会員の皆様に伝達し、青年層建築士の活動に理解していただき、さらなる発展を目指していきたいと思います。また青年層建築士会員の皆様で青年部会の存在を知らない方は、これを機に各支部青年部会に興味を持っていただけたら、活動に参加いただければ幸いです。

今年度の香川県青年委員会では、上記アクションプランについてどのような活動ができるか、行動計画を明確にして実行に移してみたいと思います。
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役員リレーコラム「平成から令和へ」高松支部 理事 篠原晴伸

5月1日から新しい元号が始まりました、「令和」。私も皆さんと同じ様に4月1日の発表を興味深く待っていました。発表から1週間程で新元号に慣れて来たように思いますが、発表された瞬間は「令」の文字が馴染めず何かポカンとした印象でした。「令」と言う字は発表以前の色々な予想の漢字に無かったですからね。
 
その後、それを選んだ趣旨の説明があり、今までの中国の古典からではなく、日本の万葉集から選ばれた事、その和歌の内容と引用した元号に掛ける願い、また「令」には「良い」とか「立派な」という意味もある事を聞き、段々と良い元号と思えてきました。引用された「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を拓き、蘭は珮後の香を薫らす」と言う歌も、普段気に掛ける事が無かった万葉の雰囲気を一瞬ですが感じた気にさせてくれます。
 
30年前の「平成」の時の言葉の経緯は覚えていませんが、「昭和」「平成」と続く中で、「昭かに和平成る」と元号が繋がって見えると、テレビ番組のコメンテーターが言っているのを聞いて、いい元号だと思った記憶があります。
昭和が長かったからか、私はアッと言う間に「平成」の30年が終わったと思っていましたが、その後、じっくりと振り返ってみた時、人生に置き換えてみると長いものだと感じるようになりました。0歳児が30歳、30歳が60歳、60歳が90歳となる訳ですから、30年は人生の中でそれぞれとても大きな時間の経過ですね。平成の30年間も、東日本大震災や阪神淡路大震災、ソ連の崩壊や湾岸戦争、ベルリンの壁崩壊やリーマンショック等、もう遠くに記憶が薄れている事柄も平成だった様です。
 
昭和生まれの私が子供の頃は、「明治は遠く成りにけり」と聞くことが時々有りましたが、今後は「昭和は遠く成りにけり」と言われそうですし、平成生まれの人もその内そうなるでしょうね。

平成の始まりの流行語に「24時間戦えますか」と言うのがありました。その以前には「モウレツ」というのもありましたが、働き方改革が4月から始まった今日、30年前とは働き方の人々の意識、社会の意識も、善し悪しは別として随分変わったものだと思います。

自分が30年前に設計し竣工した建物を振り返ると、当時の若さで設計に情熱をぶつけた思い出が懐かしく思いだされ、自分の中では日々建築と「24時間戦って来た」と言うより、取り組んできた様に思います。平成に「ゆとり教育」と言われた時期がありましたが、それが失敗であって、方向が切り換えられた今を感がえてみると、世の中が働き方改革と成って時間が出来るからと言って、建築に対する情熱と楽しみを失わず、特に若い方たちには頑張って欲しいものです。
 
元号が変わると言えば、江戸(慶應)から明治への変化は大きく、近代化への流れの中で、熱い思いや希望を持った日本人は多かっただろうと想像します。今年のNHKの大河ドラマの「いだてん」は大河ドラマ的なイメージを離れ、少しチャラけた表現ではありますが、その中にも明治の熱きエネルギーを想像させてくれている様に感じます。

司馬遼太郎氏が「建築に観る日本文化」と言う講演の中で、氏は明治の文豪、夏目漱石に触れ、漱石は実は建築をやりたかったと言う下りがあります。その中で、正岡子規は当初哲学をしようと考えていたが、米山保三郎と言う天才が哲学をするという事で自分は国文学に変えたという事や、その米山保三郎は夏目漱石の学友であり、そもそも日本(明治時代の)にイギリスのセントポールカテドラルの様な大規模建築の発注者が出る訳がない、だから建築なんてやめた方がいい、だが文学なら望みがあるだろうと言って建築から文学に導いたという事を面白く語っていました。ただ、元々理学系の頭で数学に強く法則的考え方が好きで建築をやりたかった漱石は、幾つかの小説の中の表現に建築への未練を感じさせるものが出ていると氏は言っています。

氏によれば、「明治までの日本の大きな建築はと言えば、仏教との関わりから奈良時代にその傾向があったものの、その後平安京に遷都してから信長が安土城を建てるまで一部を除いて基本的には無い」と言っていますが、漱石が近年の日本の大きな建築をもし見る事が出来れば相当に驚き、建築への思いが再燃したかも知れません。また漱石が文学をしながらも、もし建築に取り組んだらどんな作品を作っただろうとの興味も湧きます。

私は、建築士会のモニター会議の座長を3年させて頂いています。毎年その年に建築された物件から「かがわ建築士」に掲載を推薦する作品を上げ、確認する作業ですが、モニター会議時では物件名しかまだ分かりません。今年はどんな建築があるのかと興味を持ち、その後冊子になった写真を楽しみに見せて頂いています。
                                  
香川県に良い意味で競い合って、そして良い建築作品がどんどんと増える事を期待していますし、自分も微力ながらその方向に力を注ぎたいものです。

役員リレーコラム「ふと気がつけば、人生楽あり苦あり、山あり谷あり ああ忙しい」 高松支部理事 中村 賢治

3人目の孫の生まれる予定日が、昨年の12月27日であった。平成30年も暮れようとするのに、我が娘は「まだまだ出てこん」と、あっけらかんとしていた。27日が過ぎ新年の正月が来ても「まだまだ」であった。長男も、横浜から里帰りしていた次男坊一家も楽しみにしていたが、孫には会えなかった。私事だが、毎年正月には出身大学の箱根駅伝で盛り上がり、1月3日の復路の日に大学の校友会(同窓会)を開催し、酒を酌み交わしながら応援している。我が母校は1997年第73回箱根駅伝で初優勝を果たし、以来この1月3日を特別な日として毎年楽しみな日となっているのだが、今年はそれも欠席させて頂き、TV観戦であっけなく終わってしまった。校友会の連中からは、大変お叱りを受けたが、それどころではなかったのである。

次男坊一家も1月4日に「まだ生まれないねー」と言いながら帰っていった。しかし、その夜から前兆が現れ1月5日(土)の朝9時頃に3人目の孫(女の子)が無事誕生した。母子共々健康で、1月12日(土)に退院した。じいじもばあばもバタバタと大変であったが家の中は幸せ一杯であった。ところがその日から急に喉が痛くなり、13日・14日(休日)を我慢して15日(火)に熱でふらふらしながらも、古くから付合いのある病院へ行くと、「インフルエンザA型」を宣告された。予防注射もして、気を付けていたのになあ・・・・・。

すぐに家に電話をすると「帰って来るな。孫に感染したらどうするの!!」と言われ、じいじはあえなく近くのホテルで7連泊する羽目になったのです。只々眠るだけで、熱が下がるのを待たなければ孫にも会えない。ホテル住まいは苦しく、味気ないものであったが、1月23日には無事に家に帰ることができた。孫の顔を見ることができた時、「人生何が起こるか分らない」と思った次第です。当然その間の公式行事も、代役の方にお願いし、事なきを得たのだが、私の所属する組合の研修旅行にまで、行けなくなってしまった。「2月末・3月初旬には花粉症の出ない所へ行きたかったなあ」とつくづく思っています。そして、1月27日の私の70回目の誕生日には、家族から大好物の焼酎を頂き、ちびちびと飲んで幸せ気分に浸っているのです。

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話はまだまだ続きます。今年は、2年に1回の指名願いの提出年で1月後半から2月に入って、インフルエンザの後遺症に苦しみながらも、各諸官庁に提出が終わったと思ったら、疲れが出て、この歳になるまで私を支えてくれた大事な奥歯が異常をきたし、大嫌いな歯医者にお世話になることになった。私は診療台に座ることが嫌で、耳鼻咽喉科と歯科だけは、この歳になってもいまだに座りたくない。確かに今の診療台は改善されてきてはいるが、それでも嫌なものは嫌なのである。

勝手なことを言いつつも、3月は早速の「初節句」がある。我が家ではすでに孫のために、お雛様飾りを出してきて座敷に飾っている。もっともこれは、ばあばが張り切って、せっせと運び出して組み立てた物だが、なかなかの迫力のある物である。今は、歯医者に通院し、家に帰ると孫の顔を見てはじいじになっているのである。次男坊からは今年の5月の大型連休に、再び里帰りするそうで、長男も心待ちにしている。そうなると我が家は総勢10名+犬5匹の生活が待っている。騒々しい連休になるだろうなあと今から心待ちにしているところである。

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役員リレーコラム「建築人生」高松支部 岩部 和徳

私は昭和50年に小竹興業㈱に入社して、はや44年になりました。入社きっかけは、先生の勧めでした。昭和50年といえば、オイルショックの後の非常に景気の悪い時期で、求人情報の少ない時代で、なかなか世間一般的に名の通った会社の募集はありませんでした。そう言った中で先生言葉が「こう言う不景気な時こそ実力が問われ、頑張った人が勝ち残れる」と言われ、入社試験を受けることにしました。

入社試験は面接のみで、そのときの建築部長の言葉が、「うちの会社は大卒も、高卒も差別なしで、扱っていきます。」その言葉に私は右も左も分からないが、入社しようと思いました。あの時の建築部長の言葉がなければ、小竹興業には縁がなかったかも!

そこから私の建築人生の始まりです。入社式もなく、当然名刺などもなくT定規と三角定規と、三角スケール、コンベックス、ハンマー等支給され、即現場配置だったかな? それも上司はいたものの常駐じゃなく、時々顔を出す程度だったように記憶しています。

専門用語も分からず聞き直すばかりでした。職人に文句言われながら、やっていくのに不安があり、よく友達と「建築業界ってこんなものなのかな?」と、みんなで納得しながら過ごしたのを思い出します。今で思えば適当に自分の時間を作って酒を飲んだり、遊んだり息抜きが出来ていたのだなと思います。自分にとって大切な時間だったのだろう!! 

2年、3年すると施工図を描いたり、チェックしたりしながら設計図を読み取り現場職人に指示だし、図面通り出来上がっていく様子に、やりがいがを見つけ面白くなり又感動もあり、あの足場解体完了時の満足感は、施主でなく、設計事務所でなく、私のものでした。建築工事は同じ建物を施工する機会はなく、竣工の度に楽しかったです。苦労の連続、休みなしといった事に執着することなくやり切れるのは、ただ一瞬の感激だけのためであったように思います。

建設業界の現在は働き方改革とか3Kとか言われながらも、今もやってる事はほとんど同じで、若い現場監督さんが同じ感動を感じているか?やりがいのある職業と思っているか?疑問ではありますが、自分が手掛けた建物が残るというのは、素晴らしきことだと思います。現代版3Kで「給料、休日、希望」を目指して誰もが働きやすい職場作りが出来たらもっと若い入職者が増え希望ある職業ではないかと思います。建築現場本当に素晴らしいものがあり一生の仕事です。

最後に私の趣味ですが、ゴルフ、釣り等、残された会社勤めの中で、まだまだいろんな人と出会って楽しく、有意義に終わりたいです。

役員リレーコラム「ふと、振り返れば」西讃支部長 今井 史郎

大阪で建築を学び、地元に帰って建築分野に就職して仕事を覚える内に物作りが面白くなり、規模・工事費など関係なしに、与えられた仕事1つ1つを大事に考え業務に携わって来て、2年前、現役を退く時期が来た時には、44年間の月日が流れていました。

昭和48年4月に就職した時、直ぐに職場の先輩から建築士会の勧誘があり、何も分からないまま説明を聞いたのと同時に入会し籍を置くことになりました。

数年が過ぎ、仕事にも慣れ、現場でも士会会員の方と知り合いが増え始めた頃に青年部長になり、この頃から「建築業に携わる者にとって建築士会とは何ぞや」、を考え出した時期でもありました。青年委員会にも参加するようになり情報交換、勉強会、県外研修など本部事業に参加する中で感じたのは若い人の参加が非常にむつかしかった事でした。

昭和50年代はバブル時期で、人材はおり、面白いぐらい仕事があり、現場は日々残業が当たり前、休日はほとんどなく、活気はありましたが、この当時は、福利厚生、有給休暇などは、今みたいに理解はなく研修旅行に参加したくても、却下され自分の時間が取り
づらい時期でもありました。

このようなことから、若い会員が色々な行事に参加し易くするにはどうしたらいいかを支部青年部役員会で協議し、会員増強にもつながる事業を考えたのは、支部青年部独自で技術研修や研修旅行などを企画して、支部の役員会で了承してもらい、会員の身近な士会支
部事業として位置付けをし参加してもらう事でした。

呼びかけは支部会員同士になる為、知り合いも多く話しやすく、役員が会社にも出向き、士会・研修目的などを説明し、会員の方が参加し易いように心掛け、毎年20名の参加で県外研修を企画し、支部青年部の目玉事業になりました。支部だけの研修旅行は、県内では西讃支部が初めての企画実施した事業であったと思います。

他支部からも参加希望もあった年もあり、40年近く経った今でも支部青年部に引き継がれており、この頃参加していた若き会員は、現在、支部役員で残って活躍しており、青年部が活動し易いようにバックアップしています。

青年委員会での思い出は、機関紙『さぬき瓦版』の発行に携わる事が出来たことです。いつも、午後から事務局に集まり編集校正の打合せをして帰りは みんなで近くの喫茶店で夕食を食べてから解散でした。一時期、編集部員が2名だけの時期があり、この頃が一番苦しかった時で、何とか協力しあい乗り越え、後に、広報編集委員会が出来、現在も『さぬき建築人』と名前を替え、毎月送られて来た時、楽しかった良き思い出が蘇ります。

青年部を卒業後、支部事務局を15年近く担当し昨年、役員改選で支部長の推薦を受け、小生の年齢を考えると、建築士会を通じて知り合い、お世話になった会員の方への恩返しが少しでも出来るのは今の時期と考え、引き受けたしだいです。任期中に、次世代を担う若き会員にバトンタッチ出来る様頑張りますので、これからもご協力よろしくお願い致します。

今回の、役員コラムの原稿のテーマを考えている時、ふと、振り返った内容を書いてみました。
 
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