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建築士会コラム

役員リレーコラム「ふと気がつけば、人生楽あり苦あり、山あり谷あり ああ忙しい」 高松支部理事 中村 賢治

3人目の孫の生まれる予定日が、昨年の12月27日であった。平成30年も暮れようとするのに、我が娘は「まだまだ出てこん」と、あっけらかんとしていた。27日が過ぎ新年の正月が来ても「まだまだ」であった。長男も、横浜から里帰りしていた次男坊一家も楽しみにしていたが、孫には会えなかった。私事だが、毎年正月には出身大学の箱根駅伝で盛り上がり、1月3日の復路の日に大学の校友会(同窓会)を開催し、酒を酌み交わしながら応援している。我が母校は1997年第73回箱根駅伝で初優勝を果たし、以来この1月3日を特別な日として毎年楽しみな日となっているのだが、今年はそれも欠席させて頂き、TV観戦であっけなく終わってしまった。校友会の連中からは、大変お叱りを受けたが、それどころではなかったのである。

次男坊一家も1月4日に「まだ生まれないねー」と言いながら帰っていった。しかし、その夜から前兆が現れ1月5日(土)の朝9時頃に3人目の孫(女の子)が無事誕生した。母子共々健康で、1月12日(土)に退院した。じいじもばあばもバタバタと大変であったが家の中は幸せ一杯であった。ところがその日から急に喉が痛くなり、13日・14日(休日)を我慢して15日(火)に熱でふらふらしながらも、古くから付合いのある病院へ行くと、「インフルエンザA型」を宣告された。予防注射もして、気を付けていたのになあ・・・・・。

すぐに家に電話をすると「帰って来るな。孫に感染したらどうするの!!」と言われ、じいじはあえなく近くのホテルで7連泊する羽目になったのです。只々眠るだけで、熱が下がるのを待たなければ孫にも会えない。ホテル住まいは苦しく、味気ないものであったが、1月23日には無事に家に帰ることができた。孫の顔を見ることができた時、「人生何が起こるか分らない」と思った次第です。当然その間の公式行事も、代役の方にお願いし、事なきを得たのだが、私の所属する組合の研修旅行にまで、行けなくなってしまった。「2月末・3月初旬には花粉症の出ない所へ行きたかったなあ」とつくづく思っています。そして、1月27日の私の70回目の誕生日には、家族から大好物の焼酎を頂き、ちびちびと飲んで幸せ気分に浸っているのです。

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話はまだまだ続きます。今年は、2年に1回の指名願いの提出年で1月後半から2月に入って、インフルエンザの後遺症に苦しみながらも、各諸官庁に提出が終わったと思ったら、疲れが出て、この歳になるまで私を支えてくれた大事な奥歯が異常をきたし、大嫌いな歯医者にお世話になることになった。私は診療台に座ることが嫌で、耳鼻咽喉科と歯科だけは、この歳になってもいまだに座りたくない。確かに今の診療台は改善されてきてはいるが、それでも嫌なものは嫌なのである。

勝手なことを言いつつも、3月は早速の「初節句」がある。我が家ではすでに孫のために、お雛様飾りを出してきて座敷に飾っている。もっともこれは、ばあばが張り切って、せっせと運び出して組み立てた物だが、なかなかの迫力のある物である。今は、歯医者に通院し、家に帰ると孫の顔を見てはじいじになっているのである。次男坊からは今年の5月の大型連休に、再び里帰りするそうで、長男も心待ちにしている。そうなると我が家は総勢10名+犬5匹の生活が待っている。騒々しい連休になるだろうなあと今から心待ちにしているところである。

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役員リレーコラム「建築人生」高松支部 岩部 和徳

私は昭和50年に小竹興業㈱に入社して、はや44年になりました。入社きっかけは、先生の勧めでした。昭和50年といえば、オイルショックの後の非常に景気の悪い時期で、求人情報の少ない時代で、なかなか世間一般的に名の通った会社の募集はありませんでした。そう言った中で先生言葉が「こう言う不景気な時こそ実力が問われ、頑張った人が勝ち残れる」と言われ、入社試験を受けることにしました。

入社試験は面接のみで、そのときの建築部長の言葉が、「うちの会社は大卒も、高卒も差別なしで、扱っていきます。」その言葉に私は右も左も分からないが、入社しようと思いました。あの時の建築部長の言葉がなければ、小竹興業には縁がなかったかも!

そこから私の建築人生の始まりです。入社式もなく、当然名刺などもなくT定規と三角定規と、三角スケール、コンベックス、ハンマー等支給され、即現場配置だったかな? それも上司はいたものの常駐じゃなく、時々顔を出す程度だったように記憶しています。

専門用語も分からず聞き直すばかりでした。職人に文句言われながら、やっていくのに不安があり、よく友達と「建築業界ってこんなものなのかな?」と、みんなで納得しながら過ごしたのを思い出します。今で思えば適当に自分の時間を作って酒を飲んだり、遊んだり息抜きが出来ていたのだなと思います。自分にとって大切な時間だったのだろう!! 

2年、3年すると施工図を描いたり、チェックしたりしながら設計図を読み取り現場職人に指示だし、図面通り出来上がっていく様子に、やりがいがを見つけ面白くなり又感動もあり、あの足場解体完了時の満足感は、施主でなく、設計事務所でなく、私のものでした。建築工事は同じ建物を施工する機会はなく、竣工の度に楽しかったです。苦労の連続、休みなしといった事に執着することなくやり切れるのは、ただ一瞬の感激だけのためであったように思います。

建設業界の現在は働き方改革とか3Kとか言われながらも、今もやってる事はほとんど同じで、若い現場監督さんが同じ感動を感じているか?やりがいのある職業と思っているか?疑問ではありますが、自分が手掛けた建物が残るというのは、素晴らしきことだと思います。現代版3Kで「給料、休日、希望」を目指して誰もが働きやすい職場作りが出来たらもっと若い入職者が増え希望ある職業ではないかと思います。建築現場本当に素晴らしいものがあり一生の仕事です。

最後に私の趣味ですが、ゴルフ、釣り等、残された会社勤めの中で、まだまだいろんな人と出会って楽しく、有意義に終わりたいです。

役員リレーコラム「ふと、振り返れば」西讃支部長 今井 史郎

大阪で建築を学び、地元に帰って建築分野に就職して仕事を覚える内に物作りが面白くなり、規模・工事費など関係なしに、与えられた仕事1つ1つを大事に考え業務に携わって来て、2年前、現役を退く時期が来た時には、44年間の月日が流れていました。

昭和48年4月に就職した時、直ぐに職場の先輩から建築士会の勧誘があり、何も分からないまま説明を聞いたのと同時に入会し籍を置くことになりました。

数年が過ぎ、仕事にも慣れ、現場でも士会会員の方と知り合いが増え始めた頃に青年部長になり、この頃から「建築業に携わる者にとって建築士会とは何ぞや」、を考え出した時期でもありました。青年委員会にも参加するようになり情報交換、勉強会、県外研修など本部事業に参加する中で感じたのは若い人の参加が非常にむつかしかった事でした。

昭和50年代はバブル時期で、人材はおり、面白いぐらい仕事があり、現場は日々残業が当たり前、休日はほとんどなく、活気はありましたが、この当時は、福利厚生、有給休暇などは、今みたいに理解はなく研修旅行に参加したくても、却下され自分の時間が取り
づらい時期でもありました。

このようなことから、若い会員が色々な行事に参加し易くするにはどうしたらいいかを支部青年部役員会で協議し、会員増強にもつながる事業を考えたのは、支部青年部独自で技術研修や研修旅行などを企画して、支部の役員会で了承してもらい、会員の身近な士会支
部事業として位置付けをし参加してもらう事でした。

呼びかけは支部会員同士になる為、知り合いも多く話しやすく、役員が会社にも出向き、士会・研修目的などを説明し、会員の方が参加し易いように心掛け、毎年20名の参加で県外研修を企画し、支部青年部の目玉事業になりました。支部だけの研修旅行は、県内では西讃支部が初めての企画実施した事業であったと思います。

他支部からも参加希望もあった年もあり、40年近く経った今でも支部青年部に引き継がれており、この頃参加していた若き会員は、現在、支部役員で残って活躍しており、青年部が活動し易いようにバックアップしています。

青年委員会での思い出は、機関紙『さぬき瓦版』の発行に携わる事が出来たことです。いつも、午後から事務局に集まり編集校正の打合せをして帰りは みんなで近くの喫茶店で夕食を食べてから解散でした。一時期、編集部員が2名だけの時期があり、この頃が一番苦しかった時で、何とか協力しあい乗り越え、後に、広報編集委員会が出来、現在も『さぬき建築人』と名前を替え、毎月送られて来た時、楽しかった良き思い出が蘇ります。

青年部を卒業後、支部事務局を15年近く担当し昨年、役員改選で支部長の推薦を受け、小生の年齢を考えると、建築士会を通じて知り合い、お世話になった会員の方への恩返しが少しでも出来るのは今の時期と考え、引き受けたしだいです。任期中に、次世代を担う若き会員にバトンタッチ出来る様頑張りますので、これからもご協力よろしくお願い致します。

今回の、役員コラムの原稿のテーマを考えている時、ふと、振り返った内容を書いてみました。
 
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年頭の挨拶 会長 遠藤孝司

初春のお喜びを申し上げます。
平成31年の新年、明けましておめでとうございます。会員の皆様も華々しくも、穏やかな初春を迎えられた事と思います。本年も変わらずのご指導、ご鞭撻下さいますようお願いいたします。平成の元号も、この5月からは新しい元号になるのですね・・・・!

昨年は、中国四国ブロック会の幹事県という事で、例年とは異なる催し事が多くありました。6月には中国四国ブロック会の会長会議があり、連合会から三井所会長・成藤専務に参加いただき、中国四国ブロック会が連合会へ提案していた「施工分野における建築士の配置促進」の事など議論し、有意義な会議になりました。同じ6月に「青年・女性建築士の集い中四国ブロック香川大会」を開催、レグザムホール(香川県県民ホール)を会場に370名の若き建築士が集い、大いに語り合いました。秋には事務局職員会議がサンポート高松で開催されたところです。

ブロック会の話題にもありました「建築士資格制度の改善」、士法の改正も昨年には大きな動きがありました。
 *受験時の要件である「実務経験」を建築士登録時の要件とする
 *実務経験の範囲を拡大など
まずは、法律の改正が必要な事項を、自民党議員連盟の先生方に要請し、三井所会長は改正の必要性を業界紙の記者と会見、国交省・法制局と調整後、昨秋の臨時国会に議員立法で法案を上程しました。「改正入管難民法」など、与野党のややこしい対立法案が多々あり、審議の遅れで気をもみましたが、会期末ギリギリの昨年12月8日(土)の深夜に改正建築士法が成立しました。

法律が成立した事で今後、社会資本整備審議会建築分科会などで実務経験の要件等が検討され、国交省では関連の政省令の改正をし、2年後、2020年の試験から適用する事を予定しています。これで、「建築士」目指す若者にとっては、より早期に見通しを持って、資格の取得が可能になったと思います。今までもそうでしたが、今後益々、自己の実務経験等で第三者的な正確さが問われる事になります。香川県建築士会では建築に関わる仕事を目指す若者が活躍できる、環境整備を整える事を今後共、連合会等を通じて各方面に働き掛けてまいります。

末筆になりましたが、平成30年秋の叙勲で、本会の名誉会長の川井稔氏が旭日小綬章を受章されました。誠におめでとうございます。これからもなお一層のご活躍を期待し、本会へのご鞭撻を宜しくお願いいたします。

以上をもちまして、簡単ですが年頭の挨拶といたします。

  平成31年 正月

役員リレーコラム「今迄の44年間の建築士会活動で得たもの(回想)」中讃支部長 大西 秀行

昭和50年当時、坂出市役所の建築技師として在籍していた私は、資格取得と同時に(社)香川県建築士会に入会した後、中讃支部青年部会員として支部活動に度々駆り出されていました。その頃の支部活動としましては、各分会単位によるソフトボール大会やボーリング大会等が盛んに行われ、親会・青年部会を問わずほぼ全員参加で、非常に活況を呈していました。

また、年1回の本部総会は玉藻公園内にある飛雲閣で盛大に開催され、各支部からは官公庁・設計事務所・施工業者・建材メーカー等に勤務の大先輩方が集い、昼間から赤ら顔で大いに盛り上がった古き良き時代でもありました。さらに本部活動としては、高松三越デパートや丸亀四国電力等で住宅相談も行っており、私も相談委員として参加した想い出があります。

なお、余談ですが昭和57年には本部青年委員長として、初めて第25回建築士会全国大会「新潟大会」(30周年)に参加し中四国ブロック代表で事業報告を行ったのですが、報告内容の全国レベルの高さと会場の雰囲気による余りの緊張から、自身喪失してしまって十分な報告が出来なかった事を思い出すと今でも恥ずかしい気持ちで一杯です。

さて、話は戻りますが当時、私は中讃支部事務局長の下で支部会員の増強、協力会員等の掘り起しや会費集めを担当していました。市役所勤めと言うこともあり、他の行政の方々や民間企業の方々との交流が自然発生的に生まれ、この頃から建築士会活動を通して、一生涯お付合いの出来る友人や仲間ができた様に思います。当時は会費の徴収や仕事にまつわる利害関係が生じやすいとの理由で、建築士会の活動に非協力的な職場や組織も確かにありました。しかし、そこは自分の気持ちの持ち方次第であると肝に銘じ、清廉潔白を信条に上司の許可を頂き日々の活動に参加してまいりました。

また、今では恒例となっている建築設計競技にも職場チームとして参加し、その時のテーマは確か「坂出ウォーターフロント計画」だったと思いますが、審査員に当時の香川県建築課長や建築士会の重鎮の方々と共に、坂出(故:番正辰夫)市長も加わって審査を行って頂いた事で、建築士会会員として地元行政に貢献できた嬉しさと、建築士会と自分の所属する行政の距離が縮まった事の嬉しさ、及び銀賞を受賞した嬉しさが今でも大変印象に残っております。

その後、建築士会の活性化と言う点では坂出市教育委員会と協議しながら「坂出マナトピア」の中で中讃支部主催の住宅相談会を企画・立案し実行、現在の丸亀「お城まつり」と同様に当時は多くの参加者で賑わっていた事を覚えています。この頃は、本当に各行政と民間企業がお互い協力し合いながら、社会全体に対する建築士会の存在を如何にしたらアピールでき、貢献できるのだろうか?更には建築士会全体の活性化のために青年部会として何が出来るのだろうか?と、自問自答しながら取り組んでいた事を思い出します。

それから44年余りが過ぎましたが17年前の満50歳の時、長年慣れ親しんだ市役所を早期希望退職し、また東京の準大手ゼネコンで働いていた二男を呼び戻したうえで、現在は念願であった耐震診断等を中心とした構造設計事務所を営んでいます。退職した頃は、周りの者からは「お前、一体何悪い事をしたんや。世間の常識では、考えられん。」と揶揄され、家族からは「お前は一体何を考えているのか!・・・・・親子関係断絶の危機と思える程」と酷く叱られました。しかし、翌年位からは公務員時代の友人や建築士会の仲間から徐々に仕事の依頼も有り、なんとか退職後の難局を乗り切り現在に至っています。

こうした中、前々回の第59回「大分大会」に引き続き今回の第61回建築士会全国大会「さいたま大会」に参加し、改めて素晴らしい友人や仲間と久しぶりに再会出来た嬉しさと、夜の懇親会では当時の仲間達と昔話で盛り上がり、非常に楽しい思い出となりました。この様に、今迄の44年間の建築士会活動で得たものは、建築士会を通して職域の垣根を越え「未だに何でも相談出来る」素晴らしい友人関係、何十年経った今でも「あの時は、俺が・・・とか、お前が・・・とか」馬鹿話が出来る寛容な仲間意識、併せて建築士会の活性化と言う共通の目的のために色々な事にチャレンジし、それらが達成できた事による自己実現の楽しさなどです。

最後になりますが、今後の(一社)香川県建築士会の益々の発展を祈念すると共に、今回の全国大会参加に際し色々と御尽力頂きました関係者に対し、心から御礼を申し上げます。来年の第62回建築士会全国大会は「北海道・函館大会」との事ですが、中讃支部の一員として是非とも参加したいと考えていますので、その節は宜しくお願いを申し上げます。

【平成30年12月号「さぬき建築人」掲載】