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建築士会コラム

役員リレーコラム「ゆく河の流れは絶えずして」西讃支部 理事 土田 実

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中の人とすみかとまたかくのごとし』

あまりにも有名な、鴨長明の方丈記本文序章書き出しである。『昔ありし家はまれなり』と続く。世と人生の無常をうたったもので「常に同じものはこの世にない」ということか。今回のリレーコラムに際して、この無常について考えながら自分なりに人生を振り返ってみようかな~ と。

団塊の世代といわれる3年目、西讃のかた田舎に水のみ百姓の長男として生まれた私は、女系家族としては久しぶりの男の子ということで、それはそれは大事にされたらしい。そのせいか、貧乏だったけれどそんなに辛いと思ったことはなかった。周りもみんな貧乏だったからかもしれないが、それなりに毎日が楽しかった。

私の家は農家だったが、稲作以外ではたばこを作り他にはトマトやなす、きゅうり、すいか、玉葱などを栽培し、農閑期に父は副業として大工をしたり鉄骨建築の会社に勤めたりしていた。

小学生時代、私は図画工作が苦手で夏休みの宿題ではいつも苦労していた。図画の宿題はなんとか出来て、あとは工作のみとなって、出来ずにべそをかいていた私を見かねた父は、夏休み最後の日に木の残材を利用して「ちょうな」を使い私の見ている前でみるみるうちに一艘のボートをつくりあげた。無論、担任の先生は一目で私の作品でないことは判ったみたいで、なんの賞ももらえなっかったが、子供心にも父はすごいなと思ったと共に、すごくみじめな自分がいたことも、はっきりと覚えている。

私は、父が大工をしていたことはよく知らなかったが、後年建築に携わるようになって、そのことを納得した。後日名前は鉄工所でも総合建築として木造建築も受注して施工するようになった基盤がそこにあったのかなと思う。

母と結婚する前、父は大阪の会社で旋盤工として働いていたというのを後日聞いた。不器用な私と違って父は、マルチ職人であったなと今、思う。古箪笥ひとつ持って貧乏農家に婿養子としてやってきた父は、百姓として人生を終えることは嫌だったらしく、当時役肉牛として飼っていた牛を売った金を資金として溶接機とガス機一式を揃え鉄工所を開業した。我が家ではなく、里の納屋と軒先を借りてである。父の兄である伯父も偉かったと思う。

私が中学2年だったから、もう53年前のことである。当時私の担任であった教師に将来の進路について相談した時、「お父さんの後を継ぐにしても工業高校の建築科に進学するより選択肢の多い普通科にしたらどうか」と言われ、本当は理数科が苦手だった私にとっては渡りに船とばかりに地元の県立進学校を受験し入学した。もとより、本が好きで読書三昧だった私は、国語の教師になりたかった。そんな私に父は、あえて鉄工所の跡継ぎになれとは言わなかった。しかし、父には一つの条件があって、進学は四国内の国立大学にかぎると言われた。

某国立一期教育学部を当然合格するつもりで受験した私は、団塊の世代の受験戦争のあおりを受け、浪人生を含む受験者数がふくれあがった競争率のせい(本当は実力がなかった)で見事に失敗した。もう進学は無理かと思っていた時、入試募集要項の中に某国立大工学部に併設のⅡ部3年制短期大学部がある事を知った私は、もうこれしかないと思った。

理数科を出てない私のレベルで合格しそうな精密機械工学科を受験し合格した。バイトをしながら3年で履修卒業したのち土木工学科に編入し、同時に県内有数の某市内に本社があり、機械部門もある鉄骨、橋梁、水門、製缶業を営む会社に入社し、機械部以外の部門を希望し建築設計課に配属された。もとより、機械やになるつもりは全くない私に、何の異存もなかった。設計課には建築部門に優秀な厳しくもやさしい上司や先輩がいて、徹底的に鍛えられた。働きながら夜学に通ったので、2 年で済むところを4 年かかって卒業した。必死だった。卒業の時、担任教授が部屋に呼んでコーヒーを入れて下さった。嬉しかった。

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