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一般社団法人 香川県建築士会
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建築士会コラム

年頭の挨拶 会長 遠藤孝司

初春のお喜びを申し上げます。
平成31年の新年、明けましておめでとうございます。会員の皆様も華々しくも、穏やかな初春を迎えられた事と思います。本年も変わらずのご指導、ご鞭撻下さいますようお願いいたします。平成の元号も、この5月からは新しい元号になるのですね・・・・!

昨年は、中国四国ブロック会の幹事県という事で、例年とは異なる催し事が多くありました。6月には中国四国ブロック会の会長会議があり、連合会から三井所会長・成藤専務に参加いただき、中国四国ブロック会が連合会へ提案していた「施工分野における建築士の配置促進」の事など議論し、有意義な会議になりました。同じ6月に「青年・女性建築士の集い中四国ブロック香川大会」を開催、レグザムホール(香川県県民ホール)を会場に370名の若き建築士が集い、大いに語り合いました。秋には事務局職員会議がサンポート高松で開催されたところです。

ブロック会の話題にもありました「建築士資格制度の改善」、士法の改正も昨年には大きな動きがありました。
 *受験時の要件である「実務経験」を建築士登録時の要件とする
 *実務経験の範囲を拡大など
まずは、法律の改正が必要な事項を、自民党議員連盟の先生方に要請し、三井所会長は改正の必要性を業界紙の記者と会見、国交省・法制局と調整後、昨秋の臨時国会に議員立法で法案を上程しました。「改正入管難民法」など、与野党のややこしい対立法案が多々あり、審議の遅れで気をもみましたが、会期末ギリギリの昨年12月8日(土)の深夜に改正建築士法が成立しました。

法律が成立した事で今後、社会資本整備審議会建築分科会などで実務経験の要件等が検討され、国交省では関連の政省令の改正をし、2年後、2020年の試験から適用する事を予定しています。これで、「建築士」目指す若者にとっては、より早期に見通しを持って、資格の取得が可能になったと思います。今までもそうでしたが、今後益々、自己の実務経験等で第三者的な正確さが問われる事になります。香川県建築士会では建築に関わる仕事を目指す若者が活躍できる、環境整備を整える事を今後共、連合会等を通じて各方面に働き掛けてまいります。

末筆になりましたが、平成30年秋の叙勲で、本会の名誉会長の川井稔氏が旭日小綬章を受章されました。誠におめでとうございます。これからもなお一層のご活躍を期待し、本会へのご鞭撻を宜しくお願いいたします。

以上をもちまして、簡単ですが年頭の挨拶といたします。

  平成31年 正月

役員リレーコラム「今迄の44年間の建築士会活動で得たもの(回想)」中讃支部長 大西 秀行

昭和50年当時、坂出市役所の建築技師として在籍していた私は、資格取得と同時に(社)香川県建築士会に入会した後、中讃支部青年部会員として支部活動に度々駆り出されていました。その頃の支部活動としましては、各分会単位によるソフトボール大会やボーリング大会等が盛んに行われ、親会・青年部会を問わずほぼ全員参加で、非常に活況を呈していました。

また、年1回の本部総会は玉藻公園内にある飛雲閣で盛大に開催され、各支部からは官公庁・設計事務所・施工業者・建材メーカー等に勤務の大先輩方が集い、昼間から赤ら顔で大いに盛り上がった古き良き時代でもありました。さらに本部活動としては、高松三越デパートや丸亀四国電力等で住宅相談も行っており、私も相談委員として参加した想い出があります。

なお、余談ですが昭和57年には本部青年委員長として、初めて第25回建築士会全国大会「新潟大会」(30周年)に参加し中四国ブロック代表で事業報告を行ったのですが、報告内容の全国レベルの高さと会場の雰囲気による余りの緊張から、自身喪失してしまって十分な報告が出来なかった事を思い出すと今でも恥ずかしい気持ちで一杯です。

さて、話は戻りますが当時、私は中讃支部事務局長の下で支部会員の増強、協力会員等の掘り起しや会費集めを担当していました。市役所勤めと言うこともあり、他の行政の方々や民間企業の方々との交流が自然発生的に生まれ、この頃から建築士会活動を通して、一生涯お付合いの出来る友人や仲間ができた様に思います。当時は会費の徴収や仕事にまつわる利害関係が生じやすいとの理由で、建築士会の活動に非協力的な職場や組織も確かにありました。しかし、そこは自分の気持ちの持ち方次第であると肝に銘じ、清廉潔白を信条に上司の許可を頂き日々の活動に参加してまいりました。

また、今では恒例となっている建築設計競技にも職場チームとして参加し、その時のテーマは確か「坂出ウォーターフロント計画」だったと思いますが、審査員に当時の香川県建築課長や建築士会の重鎮の方々と共に、坂出(故:番正辰夫)市長も加わって審査を行って頂いた事で、建築士会会員として地元行政に貢献できた嬉しさと、建築士会と自分の所属する行政の距離が縮まった事の嬉しさ、及び銀賞を受賞した嬉しさが今でも大変印象に残っております。

その後、建築士会の活性化と言う点では坂出市教育委員会と協議しながら「坂出マナトピア」の中で中讃支部主催の住宅相談会を企画・立案し実行、現在の丸亀「お城まつり」と同様に当時は多くの参加者で賑わっていた事を覚えています。この頃は、本当に各行政と民間企業がお互い協力し合いながら、社会全体に対する建築士会の存在を如何にしたらアピールでき、貢献できるのだろうか?更には建築士会全体の活性化のために青年部会として何が出来るのだろうか?と、自問自答しながら取り組んでいた事を思い出します。

それから44年余りが過ぎましたが17年前の満50歳の時、長年慣れ親しんだ市役所を早期希望退職し、また東京の準大手ゼネコンで働いていた二男を呼び戻したうえで、現在は念願であった耐震診断等を中心とした構造設計事務所を営んでいます。退職した頃は、周りの者からは「お前、一体何悪い事をしたんや。世間の常識では、考えられん。」と揶揄され、家族からは「お前は一体何を考えているのか!・・・・・親子関係断絶の危機と思える程」と酷く叱られました。しかし、翌年位からは公務員時代の友人や建築士会の仲間から徐々に仕事の依頼も有り、なんとか退職後の難局を乗り切り現在に至っています。

こうした中、前々回の第59回「大分大会」に引き続き今回の第61回建築士会全国大会「さいたま大会」に参加し、改めて素晴らしい友人や仲間と久しぶりに再会出来た嬉しさと、夜の懇親会では当時の仲間達と昔話で盛り上がり、非常に楽しい思い出となりました。この様に、今迄の44年間の建築士会活動で得たものは、建築士会を通して職域の垣根を越え「未だに何でも相談出来る」素晴らしい友人関係、何十年経った今でも「あの時は、俺が・・・とか、お前が・・・とか」馬鹿話が出来る寛容な仲間意識、併せて建築士会の活性化と言う共通の目的のために色々な事にチャレンジし、それらが達成できた事による自己実現の楽しさなどです。

最後になりますが、今後の(一社)香川県建築士会の益々の発展を祈念すると共に、今回の全国大会参加に際し色々と御尽力頂きました関係者に対し、心から御礼を申し上げます。来年の第62回建築士会全国大会は「北海道・函館大会」との事ですが、中讃支部の一員として是非とも参加したいと考えていますので、その節は宜しくお願いを申し上げます。

【平成30年12月号「さぬき建築人」掲載】

役員リレーコラム「私の有意義な休日の過ごし方」 高松支部長 松本 宏一   

みなさんの趣味やストレス発散方法は何ですか?私は、ドライブや登山へ行ったり、ジムへ行ったりしてストレス発散や気分転換を図っています。

最近、週末の天気の良い日は、良くドライブをしています。特に目的地を決めず、ふらっと出かけ、これまでに走ったことない道や景色を見て楽しんでいます。私は、山や田畑の緑が一面に広がる田舎の原風景を見るのが好きなので、幹線道路よりもなるべくそういう風景を見られる道を選んで走るようにしています。

私は結構、方向音痴な方で、方向感覚の良い人を羨ましく思います。カーナビがあって本当に便利な時代になったと思うし、何度となく助けられているのですが、その一方で、カーナビに指示されるがままに運転するのが、機械に人間が操られているようで、反発したくもなります。最近は、ナビに右へ曲がれといわれれば、俺はここでは曲がりたくない、とか言ってナビに反抗しながら、ドライブしています。変わっていますか?

先日は北陸へドライブ旅行へ行ってきました。石川県の兼六園、金沢城、長町武家屋敷跡、福井県の県立恐竜博物館、東尋坊、富山県の菅沼合掌造り集落などを見て回りました。結構な長距離ドライブとはなりましたが、知らない道、初めて見る風景の中を走るのは楽しく、特に富山の壮大な山々や福井の広大な田園風景の中をドライブするのは、最高の気分でした。

菅沼合掌造り集落は、9棟からなる合掌造り集落で、平村相倉、白川郷と一緒に世界遺産登録されたようです。私は、合掌造り集落としては有名な白川郷しか知らず、たまたま道中で見つけた菅沼集落へ立ち寄りました。以前に白川郷へ行った時の記憶では、白川郷は規模が大きく観光地化され、人がごった返していましたが、菅沼は、こじんまりとした集落なため静かで、また違った趣きを感じました。福井県立恐竜博物館は、実物大の恐竜全身骨格だけでも44体もあり、様々な資料の展示にも工夫が凝らされており、見ごたえ十分で、子供だけでなく、大人も楽しめる施設になっています。

登山は、これまで屋島などの里山には行っていましたが、本格的な登山靴、ウェア、ストックなどの道具を揃えての登山は、昨年からスタートしました。子供の頃から魚釣りなど、自然の中で遊ぶのが大好きで、以前は良く山へキャンプに行っていましたが、子供が大きくなってからは少し遠のいていました。ずっと自然を恋しく思っていたので、今は登山が楽しく、また、キャンプも近々再開したいと思っています。

これまで、近郊の山ではありますが、百名山では剣山、石鎚山、大山に登りました。石鎚山登山では、嬉しいハプニングがありました。西日本最高峰の石鎚山は日本七霊山の一つで、古くから山岳信仰(修験道)の山として知られ、合計4か所の鎖の行場があります。この日は絶好の登山日和であったこともあり、すごい数の登山者でした。鎖場も大渋滞しており、先へ進まず、ちょうど中間地点で、停まっていた時でした。そこは、なんとか2人並んで立てる岩場で、下から追いついてきた人が横に立ったので、ふと見るとそこにはテレビでよく見る顔が。なんとプロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんでした。

知らない人も多いと思いますので、説明しますと、田中陽希さんは、NHKBS放送の「グレートトラバース 日本百名山ひと筆書き」や、その後、二百名山も踏破し、現在、三百名山ひと筆書きに挑戦中の人で、山登りをする人には、超有名人です。その日は、九州からスタートした3百名山踏破の途中で、四国の山を進んでいた時だったようで、頂上では、登山者達たちが噂を聞きつけ、田中さんがついた時にはものすごい歓迎と記念撮影の嵐でした。私も握手と記念撮影をしてもらい、良い思い出となりました。

最近は、こんな感じで休日を過ごしています。もっとどっぷりと自然の中で暮らしたいという夢もありますが、実現できるかどうか・・・

【平成30年11月号「さぬき建築人」掲載】 

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役員リレーコラム「四国遍路の魅力」総務委員長 詫間 正章

 檀家であるお寺の工事をした後、完成報告のため高野山に訪れる機会がありました。参詣するに当り、衣装等を用意するようにいわれたので、白衣(びゃくえ)、さんや袋、わげさ、納経帳は買い求め、金剛杖は母親のものを使用することにしました。これをきっかけにして我家の四国巡礼の旅が始まったのです。
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  四国遍路では霊場に参詣することを「打つ」といいますが、私達は足の向くまま、気の向くまま、車で巡るので「乱れ打ち」というようです。因みに、その他に「通し打ち」、「順打ち」、「逆打ち」とあり、「逆打ち」は昔は道に迷うといった苦労も多く、三倍のご利益があるといわれていたそうです。通し打ちで巡礼した場合は全長1100~1400kmの長い旅になります。現在私達は88箇寺の内、68箇寺を廻ったところです。廻る理由は、折角道具も揃えたし、四国もまだ行ってない所も沢山あるし、それから余暇の時間の過し方としては結構充実しているし、といったところでしょうか。両親の供養もあるのですが……。

 近年は随分四国遍路の人気が高いようで、中でも驚いたのは若い人、特に女性や外国人の多さです。その昔、若き空海は修験者として、その険しい道を巡ったわけですが、現代の「モダン遍路」は観光という側面も大きく、2015年にニューヨークタイムズが掲載した世界の観光地ベスト52のうちの35位にランクインされたそうです。一体何にそれ程の魅力があるのでしょうか?

 元来その目的は、先祖供養、病気平癒、また自らの宗教心を高めるために、といったところから、近年では、健康維持、余暇の充実、四国の自然を求めて歩くすがすがしさ、寺社建築への興味といった幅広いニーズの受け皿となっているようです。その中でも私は特に人との出会いが大きな魅力の一つと思っています。その一端を紹介します。

 60番横峰寺に参った時、この寺は車で15分程度急峻な山を登った所にあるのですが、若い外国人のカップルがいて、声を掛けたところ、ベニスからハネムーンに来て、1ヶ月かけて日本中を廻っている途中立ち寄ったとのことで、数日かけて歩き遍路で何箇寺も廻っていました。また、45番岩屋寺に参った時、ここは車で行っても30分程度徒歩で山登りの必要があるのですが、帰りのお茶屋で女子大生を車に乗せ次の寺に送ることになりました。彼女は韓国で電子工学を学ぶ学生で、休みを利用して、寝袋を持ってヒッチハイクをしながら88箇寺を廻っているのです。その後結局、後の3箇寺も一緒に廻り、道後の宿まで送ってあげましたが、もう数箇寺で結願(88箇寺全てを廻ること)するとのことでした。

 また友人に誘われ「お遍路バッハ」というコンサートに参加したこともあります。若き女性ピアニストが休日を利用して歩き遍路をしながら、バッハの全て異なった楽曲を88箇寺に奉納しているのです。彼女によると東日本大震災直後、音楽家として何ができるのかという模索から「お遍路バッハ」にたどりついたそうです。因みにピアノの鍵盤は88鍵なのです。元来、音楽は神に祈りを奉げるために生まれたものだそうで、彼女は今年5月に順打ち歩き遍路を結願したそうです。

 以上のように私にとっては、人との出会いが大きな魅力の一つとなっています。巡礼者をもてなす「お接待」の気持ちに接し、巡礼者同士の人間的な交流に始まる不思議なご縁をいただき、何か心地よい気持ちになれるのも「お大師様」の功徳のお蔭でしょうか。人それぞれの感じ方、巡り方、思いがあるのが四国遍路です。        

合掌

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役員リレーコラム「氏神様から頂いたご近所さんとの絆」副会長 白石 雄三

 私が現在住んでいる町の自治会名は天皇北自治会と称し概ね70世帯が当自治会に所属しています。35年程前に家内の実家の敷地内に自宅を建てこの地で暮らすようになったのですが、顔見知りも無く同じ班の10軒程の方々でも道で会っても挨拶を交わす程度で私自身は近所付き合いも殆どありませんでした。

 この地域は六条町にある三宮神社が氏神様で終戦直後からあった20の自治会が受ける「自治会陶屋」の習わしが有ります。若い会員の方は「陶屋」とは何ぞやと思われる方もおられるかと思うので末尾に説明を加える事として、我々の自治会は平成21年に陶屋の番が巡ってきました。その2年前、次の陶屋に携わる役員を神社に示す時に自治会長をしていた事で、詳しい事を知らない私が陶屋代表補佐をする事となり、自治会の多くの方々に協力をお願いする事となりました。そして一年間何とか無事に補佐役を務めたわけですが、一緒に苦労した近所の方々と親しく気さくな関係が出来たのです。
 
 ある時、神社行事の後、直会が終わり来賓がお帰りになった後での慰労の席で私に話かけてこられた方が、「私は博多山笠を一度観てみたいと思っている、白石さんは福岡の出身なら一度その祭りに連れて行ってくれないか」と相談受けました。それなら他の方にも声を掛けて計画をしましょうかと話がまとまり、平成23年7月に山笠見学を兼ね6名で行くことになりました。ワンボックス車で高松中央ICから運転を交代しながら九州福岡へ2泊3日の楽しい旅行となりました。

 この旅以降も2年に一度位は気の合う仲間で旅行をすることで意見がまとまり、以降の旅は25年に出雲から石見銀山へ、温泉津温泉で宿泊、翌日は津和野から萩を回り、湯田温泉に宿泊、帰りに安芸の宮島を参拝して高松へ世界遺産2か所をめぐる旅となりました。 
 27年は2泊3日で水郷柳川・熊本・別府の旅。
 29年は松山から大洲へ、鵜飼い見物が一つの目的でしたが前々日からの雨で肱川が増水し鵜飼いは中止となり残念でした。翌日は宇和島の町歩き、揚げたてのじゃこ天の味は格別でした。駅に戻り予土線の列車に乗車、出発するころには沢山の高校生達が乗り込み、前にいた彼らとの会話はとても清々しいひと時となり、県境を越え高知県に入ると眼下には清流四万十川がとうとうと水を湛えながらゆったりと流れています。窪川迄の2時間30分は期待通りでとても短く感じる旅になりました。

 旅行以外でも2か月に一度は近く(徒歩で行ける範囲)の居酒屋で酒宴を催すようになり、お酒が入ると遠慮会釈の無い会話が飛交い、互いの親密感がますます高まっているように思います。他にも、囲碁の集まりをするようになり、場所と飲み物の提供を頂いている方のご厚意で、月に2回片手にはお酒持ちながらもう片方で石を並べています。
 
 長々と取り留め無く書きましたが、この様な近所付合いが少なく無くなっていく昨今、一番身近に暮らす人達とのお付き合いの大切さや楽しさを知った様に思います。

解説:「陶屋」とは (※三宮神社ではこの字を使う)

「とうや」の制度は地域(神社)によりさまざまです。香川県だけの風習ではなく、形は違いますが日本のいたる処で古くから伝承されています。ここで紹介する陶屋はあくまでも六条町の三宮神社における習わしであり、異論を持たれる方もあると思いますが、ご容赦下さい。
 
 まず「とうや」に充てる字は音は同じであっても表記は県内において様々です、当屋・当家・頭屋等と記されています。役割としては、自治会が1年間(4月~翌年3月)、皆さんの協力にて務めます。それぞれの祭事では中心的な存在となり様々な仕事があります。
 
 昔は神様に収穫を感謝する意味も含め秋祭りは行われていました。氏子である地域の庄屋(大地主)様は名誉な事として陶屋を受け、そして掛かる費用を負担し、その小作人の方々の労力で氏神様を守っていたのでしょう。しかし戦後の農地改革で大地主は農地を手放し、一個人だけでは陶屋を受けがたく自治会(部落)が順番で務めるようになり、その自治会の中で陶屋となる家を決め、掛かる費用や労力も自治会で賄い部落陶屋を行うようになったのだと思います。

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